ああ、私は、まさに、それを求めていたのだと、とても深い納得と、安堵を覚えた。
3.11で、すべてが転覆してしまった世界のはじめに。
私が、共有したかったのは、「頑張ろう」でも、「安全です」でもなく、再起のための「絶望」だったのだと。
自分が、通じ合える仲間たちと分かち合っていたのは、それだったのかと。
記憶を遡りながら、想う。
軽薄に、希望を語れる時代が、終焉を迎えた、今。
絶望の中からしか、本物の希望が生まれ得ないことを、私たちは、知らねばならない。
この混沌としたエリアに存在する、酷い居心地の悪さ、不安、恐怖、あらゆる不穏が、雑多に混ざり合う現実。
それを、認め、受け入れた上に。
私たちは、何か「希望」らしき手がかりを、掴むのだろうと、私は、予感している。
諦めとは、全く別の意味において。
私たちは、絶望を通らずに、希望には、辿り着けないようになっている。
何よりも、今、分かち合うべきは、希望に満ちた、絶望。
なんて、輝かしいのだろうとさえ、思えてきたりする。
ゼロのフィールド、はじまりの現在。
⇒これまでの写真とことば
役目を知って果たすだけだね。
それは、いい時間だったね。よかったよかった!
軽々しくないからこそ、もっと、私たちは、話し合わなきゃいけないんだと思う。
その先のビジョンを、お互いが出し合って、一個の巨大なフィールドを描いてかなきゃいけないんだもんね。
【訳】思うに、常に解決策は”愛”だ。
日本にいるときは気に留めなかったけど、今はとても大切な言葉だと思います。
それは、家族や地域のコミュニティが崩壊した日本を憂えずにはいられないということでもあります。
本当に。
私は、いつも、amorを考えるとき、
Elisaと、やっぱね、なんだかんだで、愛が世界でいっちばん大事なんだよねーーって、アトリエで話したことを思い出すよ。
ほっとんど、エスパニョルが話せないのに、通じることって、
それこそ、何より大事な証拠なのかもと、思ったよ。
アモール。